八十二銀行 創業前史

進取の精神

歴史に探る未来の指針 かつてない変革の時代といわれる現代。
政治、経済、産業、文化、国際情勢等、あらゆるものが激しく揺れ動き怒濤のスピードで変容を遂げている。
過去から現在に至る、いかなる時代にあっても、リスクテイクしながら未来をつくっていくこと、それが金融機関の使命だ。
この使命は、製糸金融によって長野県の蚕糸産業の発展を支えた八十二銀行の成り立ちにも表れている。
八十二銀行の原点は、明治10(1877)年の第十九国立銀行、明治11(1878)年の第六十三国立銀行の創立まで遡る。
当時、製糸業者は原料の繭を現金仕入れするため、毎年、一時的な借入が不可欠だった。
両行は、繭や生糸を担保に製糸資金を貸し付ける「製糸金融」に力を入れ、蚕糸王国と呼ばれた信州の、
更には近代化を進める日本の経済活動の原動力となったのだ。
八十二銀行の歴史をたどり、先人たちが抱いてきた“未来を変える気概”を共有しよう。

「長野県の銀行」としての誇り

「健全経営を堅持し、もって地域社会の発展に寄与する」
これが八十二銀行の経営理念である。地方を拠点とし、その地域の発展に責任を持って取り組む金融機関として、ごく当然の、手堅すぎる理念と感じられるかもしれない。
しかし、この理念には、「長野県の銀行」として、長野県の発展を支えてきた金融機関であることへの矜持と、これからも長野県の未来を担っていくことへの強い責任と覚悟が込められている。

八十二銀行の創立は、1931(昭和6)年の第十九銀行と六十三銀行の合併にさかのぼる。第一次世界大戦後に続いた慢性不況と1929(昭和4)年の世界恐慌により生糸価格が崩壊するなど、地域が困窮した中でのスタートであり、その運営は決して順風とはいえなかった。
八十二銀行自体が健全で盤石な経営基盤を持たなくては、その使命を遂行することはできない。恐慌、合併、資本金の取り崩しと、創業期に辛苦の経営を経験してきた八十二銀行は、地域の未来を担うための至上の原則としてこの経営理念を掲げ、今日まで貫いてきた。

その中で、製糸業の盛衰を見守り、精密機械工業の黎明期を支え、さまざまな商業活動や地域ごとに特色のある経済活動を支援し、浮沈を繰り返す経済・産業の最前線に立ち向かってきた。

製糸金融の担い手として

江戸時代から農閑期の副業として行われていた養蚕や生糸取りは、1859(安政6)年の開港により、海外市場と結ばれ外貨獲得を支える産業として発展し、長野県でも岡谷・諏訪地方をはじめ北信濃、伊那谷、佐久平などの地域における主要産業へと発展する。

開港により外国との交流が始まると、製糸も手回しの座繰りから器械製糸へと進歩し、技術の開発や改良が進められた。また、大量生産を可能にするために組合製糸などが誕生し、各地に近代的な設備を備えた製糸工場ができていく。そうして、明治から昭和の初めに至るまで、長野県はわが国の生糸生産量の約3割を占めるなど「製糸王国」の名をほしいままにすることになる。

そしてその影には、金融面で製糸産業の振興を支えた銀行の存在があった。1870年代、産業振興資金の供給と、多額の国債や不換紙幣の整理のため、国立銀行条例が制定され、長野県には第十四国立銀行(松本)、第十九国立銀行(上田)、第二十四国立銀行(飯山)、第六十三国立銀行(松代)、第百十七国立銀行(飯田)などが設立された。

製糸業の発展において、生糸商による購繭資金の前貸しや荷為替取組は、金融上不可欠であった。長野県の製糸業は、富裕層がとりくんだ例は多くなかったことから、生糸商とむすびつきを強め、出荷の約束をして、金融的保証をうけることが必要であった。この関係に介在した、第十九国立銀行をはじめとした金融機関の役割は「製糸王国」形成上、大きかったといえる。

殖産興業の要諦となった繰糸場の内部
(写真提供/須坂市市立博物館)

“信州発世界” 支援のルーツが明治に

その頃、長野県製糸業の玄関は世界に向かって開き、その窓口は貿易港横浜にあった。
製糸産業全盛の明治・大正期、日本からヨーロッパへの生糸輸出が進むなか、各地の製糸業者は横浜の生糸商と密接なつながりを持ちながら、国際的なニーズに対応できる生糸産出を進めていった。

信州の山あいで生産される生糸が、品質に厳しい欧州市場の眼鏡にかなう質、量、ブランド力を備えるに至ったのは、生産技術や生産システムの進化によるところが大きい。だが、それを推進する力となったのは、品質への厳しい要望、優れた生糸生産に必要な情報や技術、近代的な商取引のスタイルなどをもたらす横浜の生糸商と地元製糸業者との太いパイプにあったことも、記憶しておくべきだろう。

横浜最大の生糸商であった「茂木商店」のように、製糸業者と横浜の外国商館を結ぶ商社であると同時に金融機関としての機能も持ちあわせ、荷為替の業務や製糸業者への融資を行うところも多かった。
地方の多くの製糸業者は自家の子弟をそこに就職させ、生糸の取引を実地で学ばせようと努めた。

第十九国立銀行の創設に関わった中山彦輔の父である中山浜次郎もまた信州から横浜へ行き、茂木商店の社員となったひとりだ。
彼は信州人らしい勤勉さと事務管理能力を発揮し、まだ日本になかったバランスシートを作って財務管理にあたるほどの経営センスの持ち主であった。また、実家の製糸経営にも目を配り、書簡で種々のアドバイスを残している。それが、“信州発世界”の製糸産業を育てる一助となったことは想像に難くない。

茂木商店店内
(写真提供/横浜市史資料室)
横浜港での生糸の積み込み風景
(写真提供/上田市立丸子郷土博物館)

信州は変わる、信州を変える。行名に意志を宿して

「八十二銀行」の行名は、「第十九銀行」と「六十三銀行」の合併に由来する。
両行の名称を合わせた「82」という数字を採用した一見シンプルな命名。しかし、そこに込められたものは合併の証しにとどまらない。長野県の金融、経済、社会に、安定と豊かさと将来への希望をもたらす新しい力として両行が英知を結集させることに、期待を込めての命名だったのだ。

また、合併した両行のトップは同じ情熱で使命を共有し、新たな組織運営と、お客さまの信用獲得に尽力した。
外に向かって門戸を開き、金融業務のあるべき姿をめざす姿勢、そしてトップから職員一人ひとりに至るまで情報共有し、一体になって成長していこうとする行風は、今に受け継がれている。

信州の変革を支える。創業の瞬間から担ってきた大きなこの使命と責任を、八十二銀行は今も、そしてこれからも担い続ける。

創業当時の第十九銀行本店(左)と六十三銀行本店(右)
参考/日本地方金融史 地方金融史研究会著(日本経済新聞社刊)
信濃蚕糸業史 下巻 江口善次・日高八十七編(信濃毎日新聞社復刊)
ふるさとの歴史 製糸業(岡谷市教育委員会刊)
横浜開港資料館 平野正裕主任調査研究員講演より(2012年7月菁々塾資料)